運営者プロフィール

基本情報

・ニックネーム みんみん

・年齢 29歳

・食品製造卸工場 勤務(事務 /工場直売所の販売/SNS担当)

・夫婦二人暮らし

幼少期〜中学生時代:厳しい親と同級生からのいじめ

私は札幌で教師の父親のもとに生まれました。専業主婦の母と、4つ下の妹がいます。

父の教育は厳しく、運動部の顧問をやっていたこともあり、物言わせぬ口調で叱られていました。

父は、怒るポイントや地雷がわかりづらかったため、とにかく空気を読んで発言していました。

(親子の仲が今も悪くなっていないのは、母親の気遣い力のおかげです。)

ほとんど自分の主張をしなくなっていき、幼稚園入学から集団から仲間外れにされる経験をしたり、小学校に上がってもコミュニケーションが下手で気も弱く、いじめられがちでした。

みんなが「デブ」「ブス」という単語を覚え始めた小学3年生頃から地元の中学校を卒業するまで、ずっとデブいじりが続きました。

また、親の「人様に迷惑をかけてはいけない」という教育は、子供ながらに「自分の親にとって嫌なことをしない事だ」と解釈し、お友達の家に行くこと自体に罪悪感を持っていました。

お友達と遊んだとしても門限が早く、親から心配されている事が常に気がかりで、あまり楽しめませんでした。

最終的には「親に迷惑かけるくらいなら遊びに行かなくていいや」と思っていました。

特に不自由も無かったし、当時はオタク文化が広まってきた時代だったため、高学年になった時には引きこもりの友人も多く出来ました。

中学校へ上がると、例に漏れず中二病を患い「普通の高校へは行きたくない!」と言い出し、商業高校へ進学を決めました。

それでも親の希望通り公立高校でした。この選択は、我ながら褒めたいところです。

親の希望を叶えつつ、自分なりの選択ができたと思っています。

高校生:合唱部部長として組織について考える

念願の「普通と違う」学校に行ったことで、毎日がワクワクする3年間だったと思います。

部活動は中学から継続していた合唱部に所属しました。

高校2年生の後期からは部長になるという経験をし、高校生活最大の壁にぶつかりました。

合唱部なのに、部長になった時点での部員数は同級生5人と後輩5人(うち2人が幽霊)でした。

毎日部活動に参加するのは3~4人。

「合唱するために、せめて10人以上欲しい」

私と仲間たちは、春の新入生獲得に向けて動くことにしました。

幽霊部員への退部のお願い、顧問の先生を愛されキャラに仕立てることにしました。

とにかく、雰囲気を良くして「出席したくなるような部活」を目指しました。

そして雰囲気も良くなってきたころ、ついに次の春の新入生歓迎会の作戦を練り始めました。

勧誘動画をドラマ仕立てにし、台本制作から撮影編集、ポスター制作、校内で自主コンサートの開催を計画しました。

動画編集ができる子、ポスターが上手に描ける子、おしゃべりが上手い子、背の高い子、それぞれに役割分担して協力して進めていきました。

本当にたまたま皆が良いスキルを持っていたり、良いキャラクターでいてくれて、感謝しかなかったです。

この経験が、部員の結束力をさらに強くしました。

そして新入生歓迎コンサートのあとには、見たこともないくらい、入部希望者で音楽室がにぎやかになっていました。

おかげさまで最後のコンクールでは、お手伝いに来てくれた子も含めて30人近い人数で参加することができました。

大学生:経営学をとことん学ぶ

本当は声楽を学びに音大へ行き、音楽の先生になるという夢もありましたが、受験には声楽以外にもピアノのレッスンを受ける必要があり、費用が高額で諦めました。

私の成績で行けそうな大学で、かつ地元の国公立に絞ったら1校だけになり、そこを受験し入学しました。

大学生活の前半は、これまでの反動のように、バイトと飲み会に明け暮れました。

ここでやっと親に反抗しようと試みましたが、やはり門限が欠かさずついていました。

大学3年になり、中途半端に遊んできたツケが周り、卒業の危機に直面します。
毎日大学に通って、1限から5限まで出席しないと厳しかったです。

しかしこれが良い転機になりました。

大学3年になると専門科目を深く学べるようになるので、やっと大学に来た意味を感じることができました。

私は経営組織論の内容に対し、部長時代に経験した人集めの苦労を照らし合わせていきました。

この時初めて「学んだことで誰かを救えるかもしれない」と思いました。

究極の組織とは長期存続する企業だと考え、研究テーマは長期存続する家族経営。

企業が長期存続する条件とは何か、2代目以降の家族経営がどのようにかかわってくるか等の事例研究をし、2年間年みっちり向き合い、卒業論文を書き上げることができました。

新社会人:逆プロポーズ失敗

その後、新卒で地方銀行に入行しました。

事業承継に携われる部署があると知り、大学での研究が生かせると思ったからです。

しかし、実際の仕事はクレジットカードや投資信託、保険の営業がメイン。

女性行員は

「子供を産んでいる人はマトモ、独身は何か問題がある、出世している女性に子供はいない」

そんな価値観が蔓延していました。

一人暮しでお金はかかり、実家や遠距離の彼氏のところへ帰る交通費も毎週末かかり、上司や先輩との断れない飲み会が多すぎて、お金もほとんど貯めることができませんでした。

お局にも嫌われ、一緒に励ましあっていた先輩が転職したとき、私はついに孤立しました。

「もう辞めたい。」
当時、付き合って4年の遠距離恋愛していた彼氏に「結婚して寿退職したい」と伝えました。

しかし「嘘はよくないよ。」と、断られてしまいました。

断るにしても「地元戻ってきたら結婚しよう」とか、「もう少しの辛抱だよ」とか優しく言って欲しかったです。

今思えば、職場の文化が「結婚している人はマトモ、妊娠したら立派」という価値観がスリ込まれていたから、こんなお願いをしてしまったと思います。

ただ、心はすっかり折れてしまい、出社している最中に母親に泣きながら「帰らせてください」とお願いの電話をしました。

25~26歳:疲れたので事務員に徹する

次の仕事として事務職を探すと、お惣菜の製造卸の会社に就職することができました。

家族経営の2代目が経営しており、先代(父)は残念ながら亡くなられていましたが、もう一人の創業者である会長(母)とほかの社員3人とパートさんたち、家族のような職場でした。

事務職なら何でもいいやと思っていましたが、家族経営であることに縁を感じ、いずれ何か役に立てる気がしていました。

27歳:コロナ禍、タイミング悪くプロポーズ

事務員としてのんびり過ごしながら、趣味も楽しんで、実家の皆とゆっくりした時間を過ごしていました。

穏やかで幸せでした。しばらくはこのまま過ごそう。

そう思っていたタイミングで、退職前に逆プロポーズ失敗した彼から「結婚しよう」とついにプロポーズを受けました。

思わぬタイミングでした。

せっかく実家に戻ったのに、もう少し一緒にいたかったし、妹と旅行ももっと行きたかったです。

コロナ禍の最初であり、世の中がどうなるかわからない中で、実家を離れることも不安でした。

だけど、結婚に向けて堅実に貯金してきた彼の事も考えると、ここで断るとおそらくもうチャンスはないだろうと思い、結婚して実家を出ました。

28歳:うまく行かない結婚式と価値観の崩壊

フォトウエディングの計画

コロナ禍で2年間は結婚式を計画する話は出ませんでした。

結婚2年目になり、フォトウェディングも主流になってきて、それを活用することになりました。

フォトウエディングとは結婚式をする代わりに行う写真撮影のことです。チャペルでウエディングドレスやタキシードを着て、プロカメラマンに格好良く撮ってもらうというものです。

結婚式の代わりとして、家族も正装して撮影に参加してもらうプランでした。

撮影後は披露宴の代わりとして、教会にあるレストランで両家合わせて食事が出来たら良いなと、最初は計画していたのですが。

父親が「その日は仕事を抜けられない」、「祖母は呼べない」と言ってきました。

祖母に関しては年齢もあるので諦めがつきましたが、

父に関して「娘の結婚式より仕事・・・?」と思ってしまい、さらに父は食事に関しても渋っているようでした。

電話越しに父と話している私の様子がおかしいことに夫が気付き、「食事はやめて写真のみ、時間は夕方からにしよう。」と切り替えてくれて、それを伝えると父親の声も明るくなりました。

この時、「ここまで言う事聞いて生きてきたのに、結婚式すら自分の思う通りにいかないの?」と、これまで我慢していた感覚が爆発してしまいました。

父親との関係は一方的に最悪になりました。

ついでに夫に対しても、結婚のタイミングが彼本位になったこと、過去に逆プロポーズしたときの傷を思い出し、こちらも最悪になりました。

これまでの人生、親やパートナーの希望ばかりを叶えてきてしまった。

世間一般的にレールに沿って生きてきたけど
私の意志が反映されていなかった

28年間を振り返って絶望しました。
悶々としながらフォトウエディングまでの日々を過ごすことになりました。

ダイエットに明け暮れる

夫は帰宅時間が22時や23時になることが多く、その時間を有効活用してフォトウェディングを成功させるためのダイエットを始めました。

糖質制限、筋トレ、有酸素、脂質制限など色々取り組んで3カ月で8キロやせました。

-5キロ痩せた頃に
夫は痩せたことに気づかないどころか「リバウンドだけはやめてよね」と、言われてしまいました。

幼いころの「デブいじり」がコンプレックスとして残っていた私は、痩せても褒めてもらえないのかと、悲しくなりました。

相手の希望通り生きてきても認めてもらえない、痩せても認めてもらえないなんて、何に対して努力したらいいかわからなくなっていきました。

そろそろダイエットや結婚生活のモチベーションが保てなくなりそうになった時、私と同い年で、似たような境遇の友達に出会いました。

お互い本音が言えない環境で生きてきたことを知り、人に言いづらい夫婦の悩みを話したり、現実逃避をしながら日常をやり過ごしていました。

ですが友達と私の状況では、大きく違う部分がありました。

友達は職場に同僚や上司がいて、とにかく全国出張が多く友達も多かったようです。

羨ましくなったと同時に、自分と同じ境遇の人と比べて、初めて立ち位置を自覚しました。

事務職、手取り12万、スキルなし。人と働いた経験は新卒2年間のみ。なのに妊娠したら退職せざるを得ない職場。

当然キャリアもないから、再就職は厳しくなると想像しました。

子供ができたら生活のすべてを夫に頼ることになり、今よりさらに自分の本音を伝えることもできない暮らしになる。と焦り始めました。

この頃、夫が家を買う話を進めていました。夫は土日は休みが取れないため、週末になると私は一人で内覧に行っていました。

家を買うタイミングも早いと思ったけれど「盛り上がっているのに水を差せないし、いずれ買うなら今でもいいか。」と、ここでも本音を伝えそびれてしまいました。

家が決まり、もう後に引けないというタイミングまで来たため
「今ここで自分の仕事を見つけないと本当にダメになる。もう29歳だし来年は30歳。ギリギリかもしれない。」と思い、私は転職活動に動き出しました。

引っ越し準備に追われながら、頭の中は

  • なぜ、人生詰みそうだと思ってるの?
  • 夫は、私のためを思って行動しているのに。贅沢な悩みじゃない?
  • 正直、子供を産んで育てる自信がない。こんな事思う事自体が悪いことな気がする

と考え続けました。

最後に出てきた結論は、

自分にも他人にも「嘘」ついて生きてきたな、ということでした。

本当は思っていない事に話を合わせたり、本当にやりたいことに挑戦せずに「親が喜びそうな、親が良く思ってくれそうな範囲内での挑戦」を選択してきたんだという事でした。
夫に合わせる方がラクだと、分の気持ちを伝えず、自分に嘘をつき続けてきたんだということでした。

29歳:自己分析と転職活動の中見つけたWEBマーケテイングの可能性

自己分析の日々

妊娠しても仕事を続けられて、経済的にも余裕がある。

最後に、もう一度自分のやりたいことを考え続けました。

この時浮かんだのは

「自分の知識で誰かを救いたい」

という、経営学と出会った時の感覚でした。

経営に携わる仕事等の情報収集をしたところ、たどり着いた職種は「M&A」や「コンサルタント」でした。無茶にもほどがありますね。

当たり前でしたが、事務員の経験しかないので、転職エージェントすら断られてしまいました。北海道にはそういう職種が無い、とも言われました。

ひとまずほかのエージェントさんにお願いし、職種選びから転職活動をつづけました。

見つけたWEBマーケティング

人生に悩んでいる真っ最中だったので、自己啓発系の動画がYouTubeに表示されるようになり、ある女性社長の動画が目に留まりました。

他のYouTuber達が耳ざわりの良い言葉を使っている中、ズバっと現実的なアドバイスを滝のように話す方。

現実的すぎて、自分のダメな部分を自覚してドキッとしてしまうので見るのが大変だったけれど、なぜか惹かれてていきました。

オーダーメイドスーツの会社であるRe.muse社長「勝 友美」さんのYouTubeです。

『人は自分に嘘をつく』という本を書いていることを知り、ちょうど「嘘」という言葉がテーマになっていた私は運命を感じ、すぐに読みました。

そこに書かれていたのは

「やりたいことを見つけるために、目の前のことに全力になる」

でした。

勝さんに憧れ、たまたまオンラインサロンに入会しました。そして現在の先生となるWEBマーケターの方の講座を受けます。

ある講座の最後に、先生はインフラ産業等の必要性に触れ、ミッションとして掲げていたのが

残すべき企業を、残して勝たせる

でした。

学生時代の私は「長期存続する企業の特徴ってなんだろうな〜」と大まかに研究していたけれど、

残して「勝たせる」

という考え方。格好よすぎて痺れました。

私は「好きな事に夢中な人」「想いを持って働く人」「職人」そういう方々のこだわりを聞くのが大好きなんです。

長期存続する企業を研究対象に選んだ時も、当時「LEADERS」というトヨタ自動車株式会社を舞台にしたドラマがきっかけでした。

私は、素晴らしい想いや技術を持って働く人の力になりたいと思っていました。

WEBマーケターの仕事なら、それが可能になるかもしれないと強く思うようになりました。

現在の会社で工場直売所のSNSを担当していたため、サロンで学んだことを実践しようとSNSに力を入れ始めました。

2か月後には1日の平均売上・平均来店人数が2倍になり、1日2時間の営業時間中、お客様が途切れることが無くなりました。

お店の認知度も上がり、ラジオに雑誌の取材、ローカル番組の中で一番親しまれている情報番組も来てくれて、より盛況になっていきます。

そんなある日、

創業者である会長が、取材に来てくれる方々からの「美味しい」という声を聞き、

「美味しい。これが聞きたくて会社を続けてきたんだ」

という言葉を言いました。

私は経営学を勉強したときに感じた「自分の知識で誰かを吸えるかもしれない」という感覚を再び思い出しました。

工場直売所は見た目も古く、自宅兼事務所の二階というわかりづらい場所にあるのに、認知されるのが速かったのはWEBを活用したからだと思います。

「WEBを使う、使わないでは20年の差ができる。」と言われており、WEBマーケティングの力を実感しています。

転職活動をやめ、目の前のことを全力で取り組み、サロンで学んだWEBマーケティングを実践していきました。

「妊娠したら仕事がなくなる」という問題

これが解決していなかったので、3カ月集中の動画講座が開講されるという話を聞き、手に職をつけるために動画編集を学び始めました。

3か月後、実際に仕事を獲得し始めて気づいたのは「動画編集だけで副収入を得ていくのもアリだけれど、本当に一番やりたいことは動画編集なの?」と問いかけたときに「もっとWEBマーケティングに携わりたい」という気持ちが強く出てきました。

自己分析を続けた日々のおかげで、ついに自分に問いかける癖がついていました。

そしてこの講座の最大の宝物は、かげがえのない仲間ができた事でした。

一年前、仲間も同僚も先輩もいないと嘆いていたのに、目の前の事頑張っていたら、周りには同じ志を持った方々と繋がることができました。

そして、もっと一緒に頑張りたい、何か私も力になりたいという気持ちも湧いてきました。

結局は事務員であること

ちょうどこの頃、事件が起きました。

工場直売所の商品を値上げすると、当日の朝に知らされました。

SNSの告知も遅くなり、お客様に迷惑をかけてしまう気持ちでいっぱいでした。

思い返すと、工場直売所の立ち上げから商品開発や接客の流れなど携わってきましたが、価格の設定や経理や利益計算など、お金に関する話には入れてもらえませんでした。

タイミング良く、現在のWEBマーケティングスクールが開講すると知り、WEBマーケターとして独立することが最終目標になりました。

このブログの目的

最後に……

「子供ができても仕事を続けたい。自分で稼げるようになりたい。」

と思ったところから、

目の前の事を頑張ることで、本当にやりたい事が見つかりました。

人は変われるという事をまず知ってほしいです。

そして、WEBマーケティングを仕事にされている方の中には、在宅ワーカーの方もいらっしゃいます。

WEBマーケティングを学ぶと、その後の働き方や生き方の選択肢が増えると思っています。

現在は月収12万円ですが、1年後には月収50万円を達成します。

今、私が学んでいるスクールのカリキュラムをやっていくと、目指せる金額です。

また、夫の月収と同じくらいになるため、何かあっても立場が弱くなることはないような月収です。

私と同じような「スキルもなく、子供ができたら仕事をやめなければいけない、夫に生活費の大半を頼っている、家での立場が弱い」方の希望になれるように、

スクールで学んだ内容をどんどんアップしていきます。

良かったら、並走して一緒に頑張ってくださると大変うれしいです。

もちろん「なんか大きいこと言ってるけど大丈夫?」「本当にできる?」と思っている方もいらっしゃると思います。

その方は、1年後どうなっているか観察していってくださると面白いと思います。

次回、コンセプトについてより詳しく記事にいたしますので、ぜひ読んでいただけると嬉しいです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。